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八 世の罪



 イエズスが使徒たちから離れると、わたしは一団の恐ろしい幻影がまわりに押し寄せ、ますます主の身近にひしめき迫って来るのを見た。主の悲愁と恐怖はいや増した。主は恐るべき暴風雨に会って避難所を探す人のようにおののきながら、洞の中にお入りになった。しかしわたしは、この脅迫的幻影が、洞の中までついて行き、ますますはっきり現れて来るのを見た。ああそれはまさに、人祖の堕落から世の終わりまでの、あらゆる罪悪の恐怖に満ちた幻影を、この狭い洞穴の中に、詰め込んだかのようであった。ちょうど、オリーブ山のこの場所は、アダムとエヴァが、かつて楽園から追放され、始めて来た荒れ果てた所で、かれらはここで悲嘆にしずみ途方にくれていた。主は罪悪の償いとして、神の正義をなだめるため、来たらんとする苦しみに、ご自身を捧げられた時に、その神性は、聖三位に戻ってしまわれたようであった。そして主がただ無限の愛から、また最も感受性の鋭い汚れなき人性において、人間的愛の力だけで、あらゆる恐怖と苦しみの重圧にまかせようとしておられるのだとわたしはその時はっきりと感じた。すべての罪に対するつぐないと苦痛とをその聖心に引き受けた。そして苦しみは、主の尊きおん体の四肢や尊き霊魂のあらゆる感覚のうちに、無数に枝を張った苦痛の木のように入り込み生え纏うた。主は全く人性のみにたちかえり、はてなき憂いと恐怖のうちに神に懇願し、顔をおおいうつ伏せに倒れたもうた。主は無数の幻影のうちに、世のあらゆる罪悪とその真のみにくさを見たもうた。主はこれらをすべてご自身に引き受け、あらゆる罪のため苦しんで天のおん父の正義に償いを果たそうと切に祈られた。

 しかし、これらの幻影の中に立ち混じって腹立たしげにあざ笑いうごめいていた悪魔は、イエズスの態度にますますいらだち、さらに身の毛のよだつような悪の幻影を主のご霊魂に示しながら「なんだって?これを貴様が自分で引き受けるって?そのために罰を受ける覚悟だって?なに、貴様がこの償いをするのだって?」とくり返し主に怒鳴りつけた。

 洞穴の空間は罪悪の身の毛もよだつような恐ろしい幻影と悪魔の嘲笑と誘惑で満ちみちた。主はこれらをすべてご自分に引き受けた。ああ!わたしはたくさん見た。一年かかってもこれを全部言いつくすことは出来ない。

 イエズスは始めは静かに祈りの姿勢でひざまずいておられたが、やがてそのご霊魂は、多くの罪悪とそのいやらしさ、および人類の神に対する忘恩の前に恐れおののかれた。その時、おしつぶすような憂いと恐怖が主におそいかかって来た。主は打ちふるえ恐れながら「父よ、出来るならこの杯がわたしから遠ざかりますように。わが父よ、あなたには何事も可能です。どうぞこの杯をわたしから取り去ってください。」と祈られた。しかし主は直ちに気を取り直し「けれどもわたしの意志でなく、あなたの思し召しのままに」と仰せられた。主の意志とおん父の意志とは全く一つであった。主は愛から人間の弱さをその身に引き受けたが、死に直面してふるえおののかれた。主はその場に打ち倒れ、手を揉みよじられた。恐怖の汗は主をおおいつくした。主は再び起き上がられたが、ひざがよろめきほとんどささえ切れなかった。主は全く変わり果てほとんど見定めもつかないほどになった。主の唇は色失せ髪は逆立ってしまった。このようなご様子で主は立ち上がられ、洞穴を出て三人の弟子の方に行こうとされたが、歩くというよりもむしろ、よろめき向かっていらっしゃるようであった。主は洞穴を左の方から上がって行かれると、そこには弟子たちが横になっていた。かれらは疲労と心配と恐怖とから眠りこんでしまっていた。主は恐ろしさのあまり救いを求めて友のもとに逃げ込む者のように、また他方自分自身は非常な不安におののきながらも、羊の群れが危険にさらされていることを知って、その群れを見に行く良き牧者のように使徒たちの方に行かれた。主はかれらも憂いと試練のさ中にいることをご承知だった。しかし恐ろしい幻影がこのわずかな距離を行く間さえも主を取り巻いていた。主は弟子たちが眠っているのをごらんになり「シモン、おまえは眠っているのか」と仰せられたので、かれらは眼をさまし起き上がった。孤独な主は「おまえたちは、わたしといっしょにわずか一時間も眼をさましていることが出来ないのか」と仰せられた。かれらは主が、すっかり恐れに打ちのめされ、変わり果て青ざめよろめき汗にまみれ、おののき打ちふるえておられるのを見た時、あ然として何を考えてよいのかわからなかった。もし主が常に帯びておられた光に包まれてかれらの方に来なかったならば、かれらはとうてい主と認めることは出来なかっただろう。ヨハネは「主よ、一体何事が起こったのですか、他の弟子たちを呼びましょうか。逃げましょうか」と尋ねた。しかし主は、こうお答えになった。「たとえもう一度、わたしが三十三年間生き長らえて人々を教え、病人をいやしたとしても、明日までに成就せねばならぬことには及ばぬだろう。他の者を呼んではならぬ。かれらはこんなみじめな状態のわたしを見るには耐えぬから向こうに置いたのである。かれらはわたしの姿につまづき、試練に倒れ、多くのことを忘れてわたしを疑うようになるだろう。しかし、おまえたちは人の子が変容したのを見たのだ。だから暗闇の中にも、全く見捨てられてしまった状態においてもなお、人の子を認めることが出来るだろう。しかし誘惑に落いらぬように、覚めて祈れ。精神は はやっても肉体は弱いものだ。」そして主はかれらに、忍耐を勧め主の人間性における戦いと、ご自身の弱さの原因について教えようとされた。主はなお大きな悲しみのうちにかれらに語られ、再びそこから去られるまで十五分ほどかれらと共におられた。主が募る憂いと共に洞穴に戻られようとすると、かれらは主の方に向かって手を差し伸べ、泣きくずれた。そして、両手で頭をおおい「どうしたのだろう。何事が起こったのだろう。主はすっかり頼りなくなってしまわれたではないか。」と語り合った。



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